アルメニアン・コラム パートⅣ
2022/05/05
第4回:アルメニア人ディアスポラ
文:木村 颯 《当団トロンボーン奏者》
目次
1.「ディアスポラ」とは
2.アルメニア人ディアスポラ
3.《アルメニアン・ダンス》とディアスポラ
King’s Gambit Wind Orchestra第8回定期演奏会に向けた特別企画としてお送りしているこのコラム、第3回はアルメニア人の民族的アイデンティティとなっているアルメニア人虐殺にまつわる音楽についてお送りしました。人を民族や人種、同性愛者などのわかりやすいカテゴリーに押し込めることで差別、迫害する行為は、これまでも、そして現在も行われています。ある日突然、「アルメニア人」というだけで暴力にさらされる、このような理不尽を許してはいけないと思います。
大切なのは、まずは自分がこのような行為の加害者にならないこと、そして被害者が生まれないように社会を監視することです。同時に、これまでに起きてしまった事実にきちんと向き合い、「寛容さ」を持ち合わせたより良い未来を構築していくことが求められていると思います。
さて、今回はアルメニア人虐殺によって故郷を追われたアルメニア人についてお送りします。「ディアスポラ」とも呼ばれる彼らは、祖先や親、自身の故郷を離れて暮らしています。日本に生きる私たちにはあまり実感がわきませんが、「アルメニア系」の人は意外と世界のあちこちにいます。苗字の最後が~イアンや~ヤンで終わるとアルメニア系を疑ってください。今回はそんなアルメニア人ディアスポラの一端をご紹介します。
1.「ディアスポラ」とは
まずは一般の人には馴染みがないと思われる「ディアスポラ」という用語について解説します。ディアスポラという言葉は、「多方向」を意味する “dia-” という接頭辞と、「種をまく」を意味する “speirein” が組み合わさってできた古代ギリシャ語 “diaspeirein”に由来します。
ディアスポラのもっとも典型的な例がユダヤ人です。紀元前、エルサレムに住むユダヤ人が、新バビロニアのネブカドネザル2世によって強制的にバビロンに移住させられる出来事が起こりました。「バビロン捕囚」と呼ばれるこの出来事は、ユダヤ人が国家と故郷エルサレムを失い各地に離散していくきっかけとなりました。ちなみに英語で “the Exile”というとこのバビロン捕囚のことを指しますが、小文字のexileは「追放」や「亡命」、そして「異郷での生活」といった一般名詞として使われます。ユダヤ人の経験が「追放」のモデルとなっているのですね。
(旧約聖書のバビロン捕囚を基にした動画。参考に。)
同様に “Diaspora”を辞書で引くと、バビロン捕囚によって離散したユダヤ人を指す大文字の固有名詞としての用例がまず出てきます。その次に、小文字の一般名詞としてユダヤ人の経験をモデルとした民族離散の意味が続きます。ユダヤ人の事例で強調しておきたいのは、彼らの経験がエルサレムという故郷(homeland)と強く結びつくものだということです。心のどこかに概念的で理想的な「故郷」を思い描きながら、異郷の地で生活する。これがディアスポラと呼ばれる人々なのです。
2.アルメニア人ディアスポラ
虐殺でアナトリア(今のトルコ共和国東部)という故郷を追われたアルメニア人の多くも、このディアスポラとして世界中に散っていきました。ただ、厳密にはアルメニア人虐殺以前もアルメニア人の海外移住は進んでいました。東西交易の中間地点にあるアルメニアでは、「交易ディアスポラ」といって交易に従事するために東へ西へ新天地を求めて移住していった人も多くいます。しかし、このような虐殺以前の移民と虐殺によるディアスポラの決定的な違いは、暴力による強制的な転地があったかどうかです。
かくして、虐殺を契機に多くのアルメニア人が故郷を離れ新天地での生活を送ることとなりました。シリアやレバノンなどの中東諸国、東アルメニアとも縁深いロシア、ヨーロッパ、北米などが主な移住先です。
特に、移民の国アメリカでは成功をつかんだアルメニア人が多くいます。小説家のウィリアム・サロヤン(1908-1981)や、キム・カーダシアンをはじめとする実業家のカーダシアン一族などです。第3回で取り上げたシステム・オブ・ア・ダウンも、メンバーがアルメニア人ディアスポラとしてアメリカ西海岸で生活する中で出会い、結成されたバンドです。
カリフォルニア州はアメリカの中でも特にアルメニア人が集中して住んでおり、LAとサンフランシスコの中間にあるフレズノという街やLA郊外のグレンデールという街がアルメニア人が多く住むことで有名です。LAのイーストハリウッドには「リトル・アルメニア」と呼ばれる一画もあります。
小説家のサロヤンも、トルコからフレズノへ移住したアルメニア人の下に生まれました。サロヤンの小説『ヒューマン・コメディ』では、生まれ育ったフレズノをモデルとした街で暮らすユリシーズという少年とその一家の話がつづられます。一家はアルメニア系のディアスポラであり、サロヤンは登場人物に自身を重ね合わせます。
列車を見かけたユリシーズは、列車に手をふります。すると、黒人の乗客だけが手をふり返し、ユリシーズにこう言います。
「故郷に帰るんだよ。自分の場所に!」
ユリシーズはこの出来事を、兄のホーマーに話します。
「黒い男の人がいて、手をふってくれた」
「ふり返した?」
「最初にぼくがふったの。それで、最初にふり返してくれたの。つぎんぼくがふり返した。そしたら、また手をふった。それから『故郷に帰るんだよ!』っていった」ユリシーズが兄を見てたずねた。「ぼくたちはいつ故郷に帰るの?」
「ここが故郷だ」(『ヒューマン・コメディ』小川敏子訳、光文社古典新訳文庫より)
このように、祖先の「故郷」や概念上の「故郷」を胸に抱えながらも、現在の「故郷」で生活するディアスポラの複雑な胸の内をサロヤンはあらわにします。黒人だけがユリシーズに手をふり返したように、サロヤンはアルメニア人だけでなく暴力や理不尽に翻弄された人々全体にまなざしを向けます。弱者やマイノリティの心情を繊細に描き出すことがサロヤン作品の魅力だといえるでしょう。
3.《アルメニアン・ダンス》とディアスポラ
今回第8回定期演奏会で演奏するアルフレッド・リード《アルメニアン・ダンス》にもアルメニア人ディアスポラが深く関わっています。リードに作曲を委嘱したのがアルメニア人ディアスポラであるハリー・ベギアンなのです。
ハリー・ベギアン(1921-2010)はミシガンでアルメニア人ディアスポラの家庭に生まれました。学生時代にスクールバンドとコルネットに出会い音楽にのめり込んでいったべギアンは、大学卒業後バンド指導者としてのキャリアを歩みます。べギアンは博士課程も修了しており、博士論文のタイトルは『コミタス・ヴァルダペト:彼の人生とアルメニア音楽への影響』というものでした。
このように自身の民族的なルーツに関心を持つべギアンによって、《アルメニアン・ダンス》は委嘱されたのです。その作曲の過程にもべギアンのアイデアは多く使われていることだと思われます。
《アルメニアン・ダンス パート1》を指揮するべギアン
エルサレムに住むアルメニア人の古い聖歌を題材にしたリードの作品《エルサレム讃歌》もべギアンが委嘱した作品です。祖先の「故郷」を離れ生活するディアスポラにとって、自身のルーツを探求することは重要な意味を持ちます。べギアンは音楽を通して自身の民族的なルーツを探求し、それをリードによる傑作として昇華させることでアルメニア文化を広く伝えていったのです。
さて、アルメニア人の音楽的なルーツをたどるなかでべギアンが選んだのが、コミタスの民謡でした。「彼の人生とアルメニア音楽への影響」という論文の副題の通り、べギアンはコミタスが残したものを重要視していることがわかります。最終回となる次回のコラムでは、そのコミタスについて深く掘り下げてみようと思います。つづく。
関連リンク
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アルメニアン・コラム(全5回)
- 第1回:アルメニアについて知ろう!~導入編~
- 第2回:アルメニアの歴史
- 第3回:1915-2015
- 第4回:アルメニア人ディアスポラ
- 第5回:コミタス