King's Gambit Wind Orchestra

進化と挑戦を続ける吹奏楽団

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アルメニアン・コラム パートⅡ

      2022/05/05

第2回:アルメニアの歴史

文:木村 颯 《当団トロンボーン奏者》

目次

1.キリスト教の受容と文字の発明
2.イスラムとの共生とその崩壊
3.ナゴルノ・カラバフを巡って

King’s Gambit Wind Orchestra第8回定期演奏会に向けた特別企画としてお送りしているこのコラム、第1回はアルメニアの概要についてお送りしました。アルメニアがどこにある国なのか、皆さんの頭の中にパッと思い浮かぶようになっていただければ幸いです。第2回の今回は、アルメニアの歴史において重要なトピックをつまみ食いしながらお送りします。

1.キリスト教の受容と文字の発明

第1回で述べたように、アルメニアはアジアとヨーロッパの中間地点とも言える場所にあります(どちらかといえば「アジア寄り」でしょうか)。しかし、実はアルメニア人はキリスト教をいち早く受容した人たちでもあるのです。この章ではアルメニア人の文化的なアイデンティティの基盤となっているキリスト教について詳しくみていきましょう。

キリスト教はもちろん皆さんご存知だと思います。イエスを救世主とする宗教ですね。現在でもキリスト教的思想や慣習は世界中に影響を与えています。世界三大宗教の一つとも言われるこのキリスト教は、ヨーロッパを中心に世界に広がりました。そのきっかけともいえるのが、当時地中海の覇権を握っていたローマがキリスト教を国教に定めたことです。西暦1世紀の皇帝ネロの時代にみられるように、かつてローマにおいてキリスト教は厳しく弾圧されていました。しかし313年のミラノ勅令によって信仰の自由が認められると、392年にテオドシウス1世によってキリスト教は「国教」に定められました。ローマ帝国によって与えられた権威と庇護のもとで、キリスト教は拡大していったのです。

一方で、アルメニアは実はローマよりも早く(すなわち世界で初めて)キリスト教を国教に定めたと言われています。キリスト教受容以前のアルメニアでは、東方で力を持っていたペルシャ人の文化の影響によりゾロアスター教が盛んでした。しかし西暦301年、ときのアルメニア国王であったトルダト3世がキリスト教に改宗し、同時にアルメニア人の集団改宗が起こりました。この集団改宗を主導したのが、「開明者」聖グレゴリウスԳրիգորԼուսավորիչです。Լուսավորիչ(ルサヴォリッチ)は「光をもたらすもの」という意味なので、
文字通り混沌の時代にキリスト教という光をもたらした偉大な宗教指導者として語り継がれているのです。

アルメニア使徒教会の総本山エチミアツィン大聖堂の入り口にある門。かっけぇ…。(筆者撮影)

このトルダト3世の改宗物語は、5世紀に書かれた歴史書によって後世に伝えられてきました。もちろん「国教化」とそれが記録された時代がずれているため、若干の脚色はあるかとは思います。しかし、世界で初めてキリスト教を「国教化」したということを、アルメニア人の多くは現在でも誇りに思っています。

エチミアツィン大聖堂の博物館に展示してある「ロンギヌスの槍」。本物かは怪し…おっと誰か来たようだ。(筆者撮影)

ところで、キリスト教は大きく分けてカトリック、プロテスタント、正教会の3大宗派に分けられます。これらの宗派は451年にカルケドン公会議で決まった内容を受け入れている宗派ですが、アルメニアのキリスト教(正式名称はアルメニア使徒教会)はこのカルケドン公会議の内容を受け入れませんでした。アルメニア使徒教会はここで西側の教会とは袂を分かち、アルメニア人の「民族宗教」のような形で現在まで受け継がれてきました。

その布教に欠かせないのが「聖書」です。集団改宗が行われたアルメニアでは、聖書の内容を大衆にわかりやすく伝えるために聖書をアルメニア語に翻訳する必要が出てきました。そこで5世紀初頭にメスロプ・マシュトツによってアルメニア文字が発明されました。アルメニア文字は38文字(+α)のアルファベット(表音文字)で構成されています。アルメニア文字の発明によって、モヴセス・ホレナツィやアガタンゲロスなどの歴史家が残した歴史書や数多くの文学作品が書かれました。キリスト教の受容と文字の発明によって、アルメニアの文化は最初の「黄金時代」を迎えたのです。

2.イスラムとの共生とその崩壊

7世紀にアラブで産声を上げたイスラム教は、瞬く間に中東を席巻していきました。オスマン帝国研究の権威である鈴木董によると、イスラム的な世界秩序観では世界は次の二つに分けられます。ムスリムの支配下でイスラム法が十全に機能している「イスラムの家」と、異教徒の支配下にある「戦争の家」の二つです。そして全世界を「イスラムの家」に包摂するためにたえまない「ジハード」が行われるのです。ジハードによって中東よりもさらに東の地域や地中海沿岸部までイスラム教は拡大しました。キリスト教側はこれを脅威と捉え、十字軍遠征で対抗しました。

一方、ユダヤ教やキリスト教徒と共通のルーツを持つイスラム教では、ユダヤ教徒やキリスト教徒を「啓典の民」としています。「啓典の民」はイスラム勢力に人頭税(ジズヤ)と土地税(ハラージュ)を支払うことにより、イスラム教徒と平和的に共存することが可能でした。

17世紀ごろになると、アルメニア人が多く住んでいた東アナトリア(現在のトルコ東部)をオスマン帝国が治め、現在のアルメニア共和国にあたるコーカサス南部をイラン(ペルシャ)が治めるという構図ができあがってきます。イランの支配領域はのちにロシア帝国に引き継がれることとなります。一方でオスマン帝国内では、19世紀にナショナリズムの波が押し寄せるまで長きにわたって、イスラム教の持つ「寛容さ」のもとでイスラム教徒とアルメニア人(=アルメニア使徒教会を信仰する人)との共存が実現していたことは重要です。もちろん啓典の民にのみ課せられる税金は「平等」とはいえませんが、オスマン帝国が広大な領域にまたがり多宗派、多言語を包摂しながらもその体制を維持できたのは、この「寛容さ」によるものが大きいのではないでしょうか。

19世紀になると、先ほども述べたようにナショナリズムの波がヨーロッパから押し寄せます。ギリシャの独立を契機に、オスマン帝国の各地でナショナリズムが沸きあがりました。アルメニア人はオスマン帝国とロシア帝国でそれぞれ民族運動を行い、トルコ人も汎トルコ主義を掲げるようになります。国民国家建設を夢見たため「寛容さ」がなくなった帝国は、次第に解体へと向かっていったのです。

「寛容さ」がなくなった最終的な帰結であり、イスラム教徒とアルメニア人との共存を決定的に終わらせることとなった「事件」については、次回のコラムで詳しく扱うこととしましょう。

3.ナゴルノ・カラバフを巡って

第一次世界大戦後、アルメニアは南コーカサスにおいて民族政党を中心に共和国を建設しますが、すぐに社会主義の波にのまれてしまいます。1920年にアルメニア・ソヴィエト社会主義共和国が成立し、これはソ連を構成する共和国の一つとなります。同じく南コーカサスのグルジア(ジョージア)とアゼルバイジャンもこのときソ連に組み込まれたのですが、そこで問題となったのがアゼルバイジャンとの境目にあるナゴルノ・カラバフと呼ばれる地域です。


1920年のデータでは、ナゴルノ・カラバフの人口のうち約9割をアルメニア人が占めていたといわれています。一方で、ソヴィエト中央委員会はカラバフをアゼルバイジャン側に帰属することを決定しました。これによりカラバフはアルメニア人にとって「未回収の土地」となり、分断された土地と民族はアルメニアにとっての懸案事項となっていました。

ペレストロイカ期になるとカラバフを求める民族運動も勢いを増していきました。共産党の行き詰まりと民族運動の高まりによってソ連からの独立を決めたアルメニア。独立以後アゼルバイジャンとの本格的な戦闘が始まることになりました。アルメニアのバックにはロシアが、アゼルバイジャンのバックにはトルコがついていたと言われています。1994年に停戦が成立し、アルメニア側がカラバフを実効支配することになりました。

ここで問題となるのが、アゼルバイジャン側の避難民問題です。カラバフにはアルメニア系の住民が多いとはいえ、アゼルバイジャン系の住民ももちろん住んでいました。停戦後にカラバフを追われた彼らはアゼルバイジャンで避難民として生活することになりました。避難民の生活を支え続けることは、アゼルバイジャンにとって重荷としてのしかかりました。かつてはアルメニア系とアゼルバイジャン系が混在しながらも共存していたカラバフですが、ナショナリズムと民族自決によって深い溝が刻まれてしまったといえるでしょう。

停戦後は大規模な戦闘はしばらくありませんでしたが、2020年9月に両者は再び本格的な戦闘に突入します。「第二次ナゴルノ・カラバフ紛争」とも呼ばれるこの戦闘は、2020年11月にロシアの仲介のもと停戦しました。今回はアゼルバイジャンがカラバフを取り戻した形となり、今度はアルメニア系の避難民が増加しました。そしてなんと、ウクライナ情勢に世界の注目が集まる中、今年の4月現在カラバフでの戦闘が再燃しそうな状況にあります。停戦を取り仕切り、その後も戦闘が起こらないように見張っていたロシアがウクライナにかかりきりということでパワーバランスが崩れたのではないかと思われます。アルメニアとアゼルバイジャンは停戦を破ったとしてお互いを非難し合い、解決の糸口は見えません。

カラバフの帰属は一旦措いておくとしても、現在進行形で土地が蹂躙され両軍が死者を出す現状から目をそらすことはできません。カラバフ問題が一日でも早く解決するためにも、私たち国際社会はカラバフでの非人道的行為を監視し、話し合いによる解決を求め続ける必要があります。次回は第一次世界大戦下において非人道的な事態へと発展していったアルメニア人虐殺についてお送りします。つづく。

参考文献
ジョージ・ブルヌティアン『アルメニア人の歴史:古代から現代まで』。小牧昌平監訳,
渡辺大作訳。藤原書店, 2016年。
鈴木董『オスマン帝国の解体:文化世界と国民国家』。講談社, 2018年。
富樫耕介『コーカサスの紛争:ゆれ動く国家と民族』東洋書店新社, 2021年。

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